「天竺」目指して夫婦モバイル放浪

 
 

牛次郎さん壊れないでね―牛次郎の旅ダイジェスト版― 2000.11.21

 私達は牛次郎と名づけたワンボックスジープで南米を周遊したのですが、最初から車を買って旅しようと思っていたわけではありません。私達もはじめはバックパッカーでした。日本からバックパックとシタールを担いでロサンゼルスに渡り、そこからバスでメキシコ、中米と南下、その後にチリに飛行機で飛び、チリ、ペルー、エクアドルと移動していました。その旅は主にバスを使う旅でしたが、たまに飛行機を使ったり、船を使ったりしていました。

 そう言ったスタイルの旅も9ヶ月を超えてくると、バスに飽き飽きして移動するのもめんどくさくなってしまいます。そう言ったスタイルに飽きない人も居ますが、私達は飽きてしまったのでした。飽きっぽいのは私達の大きな欠点なのです。

 その頃私達が宿泊していたエクアドルのホテルスクレは一泊50円と「世界でもこんなに安いホテルはないのではないか?」と思えるほど激安で、長期滞在するのに丁度良かったのです。確かに1ヶ月滞在していてもろくにお金は減りませんでした。しかし、ホテルスクレの滞在が1ヶ月を越えた頃、「これじゃまずい!! このままずるずる居たら出られなくなってしまう!!」と思い始めたのです。ですが、その頃の僕らはすでにバスで出発する気など毛頭なし。自力でパッキングして脱出など出来る訳もなし。ホテルスクレを脱出するには何か特別なイベントが必要だったのです。そしてある夜、みんなと話をして出た結論が「車を買って南米を回ろう」という話でした。参加メンバーはウメ、K、RideTandemの青山さん、グアテマラで邦人殺害事件の現場に居合わせた猪飼君の4人です。

 その後、私達はキト市内の色々な所に車を探しに行きましたが思ったような車がありません。探している内にエクアドルは車の相場が非常に高いという事も発見しました。ちょっと綺麗な車だと6000$以上平気でするのです。「車を買うのに一番安い所はどこ?」と探した結果、フェリア・デ・カーロ(車市)の存在を発見し、そしてフェリア・デ・カーロ(車市)で後に牛次郎となるボックス型のジープを発見しました。フェリア・デ・カーロ(車市)で見つけたそのジープは、値段も$1880と非常に手頃でしたし、なによりも4人で横になって寝れる広さがありました。それを見た瞬間「これだったら宿代が浮くだろう…」と誰しも思ったものです。

 そのジープは元の持ち主がセグンド・バカと言う名前だったため、牛次郎と言う名前になり、牛模様を施されました。私達は牛模様にしたつもりだったのに、気がついたらただの装甲車になっていたのですが。牛模様にした後、そのまま整備しないでは不安なのでメカニックに持って行き、クラッチ、ブレーキ、ハンドル、エンジンと壊れそうなありとあらゆる所を見てもらいました。見てもらうと牛次郎君、ほとんどの所がだめになっていて色々なパーツを交換しなければなりませんでした。私達は全部交換してしまえば問題ないだろうと考え、全てのパーツを交換したのですが…これがこれから始まるメカニック通いの始まりだとは思いもよりませんでした。

 6月14日夕方。メカニックの兄ちゃんが「明日からパロ(ストライキ)が始まる」と言う情報を持ってきました。南米ではパロ(ストライキ)はしばしばある事。一度パロ(ストライキ)が始まると道路が分断され、公共交通機関はまったく動かなくなります。パロ(ストライキ)はしばしば10日間以上続き、パロ(ストライキ)の間はその街から一歩も行動できなくなるのです。それを知っていた私達、メカニックに頼み、夜の8時まで仕事してもらい、なんとか牛次郎を出発できる状態にしてもらったのです。

 直った牛次郎をホテルスクレに連れて行き、ホテルスクレの宿泊者と最後の晩餐。そして夜の12時、出発しました。出発したはいいものの…夜の2時頃いきなりヘッドライトが点かなくなります。なんでだろう?と見てみた結果、ヘッドライトのハイビームとロービームの内のハイビームが点かなくなった事に気がつきました。「じゃあ、ロービーム使えばいいじゃん」と言う事で、その場は何とか収まったのですが、このヘッドライトの問題は最後まで引きずる事になったのです。

 そもそも牛次郎君。牛次郎君はメーカから出荷された状態の車ではありません。車体はクライスラー、エンジンは日産の2000cという構成からも分かるように、どこかのエクアドル人メカニックが車のシャーシだけ買ってきて、エンジンを後付け。クラッチやブレーキもありあわせの部品で適当に作ったものでした。そのメカニックは車の事はそれなりに分かっていた様ですが、電気のこととなるとさっぱりだった模様で、とにかく牛次郎の配線は異常なまでに汚く、入り組んでいて、ぐちゃぐちゃでした。電気に多少の知識があるウメはブラジル、サンパウロで配線を一から全部引き直そうかとも思ったのですが、あまりのぐちゃぐちゃさ加減にげんなりしてしまったものです。

 さて、夜が明け、エクアドル←→コロンビアとの国境。始めての牛次郎の国境越え。何回も国境を越えている私達も、車を国境越えさせると言うのは初めてだったのでどきどきものでしたが、あまり難しい手続きもなく無事に終了。結局その後、コロンビア←→ベネズエラ、ベネズエラ←→ブラジル、ブラジル←→パラグアイ、パラグアイ←→アルゼンチン、アルゼンチン←→チリ、チリ←→ペルー、ペルー←→エクアドルと8回もの国境越えを経験しました。日本からバイクを持って来た青山さんは「僕のバイクはこんなに簡単に通れないよ」と言っていましたが、そこはやはり南米の車。エクアドルのマトリクラ(車検証)を見せて、ペルミソ・デ・アドゥワナ(税関の一時輸入許可書)をもらうだけで問題なくどの国も通過できました。南米をバイクや車で旅行するなら、やはり北南米で買った車の方が都合がいいみたいです。アメリカの車だったら北南米を旅行するのにまったく問題ないとは良く言われる話です。

 コロンビアに入国。コロンビアは夜中走るとゲリラが出ると言われたので、極力昼間走ることにして、夜中はホテルに泊る事にしました。ゲリラが出ると言われたパスト←→ポパヤン間も問題なく通過。バイカーが集まるNorthanWalkersのBBSで「あの装甲車みたいな車でコロンビアを走るのは楽しいでしょうね―」と言われたのですが、残念ながら期待に応えられませんでした。

 それでも、私達がゲリラの存在を忘れていたわけではありません。コロンビアを走っていたある日、道の真ん中にサブマシンガンを持った私服の男4人組を発見。「ゲリラだ。逃げようか?停まろうか?」と瞬間的に悩み、「停まらなかったらきっと蜂の巣にされる」と思い、停まる事に。「ゲリラだ…もうダメだ。みんな荷物取られる」と思ったのですが、停まってみると私服警官の検問。パスポートと、車検証をチェックするだけで終りでした。その後、みんなして胸を撫で下ろし、「紛らわしい事すんなよーーー」という話で盛りあがったのは言うまでもありません。

 次の国はベネズエラ。コロンビアでは検問はあってもあまりしつこくなかったのですが、ベネズエラに入ったらまったく状況が違いました。コロンビアからベネズエラの国境を抜けて、一番近い大都市マラカイボまでとにかくものすごい検問の数。20回以上はあったような気がします。その度に「なんでエクアドルナンバーの車なんだ」とか「なんで迷彩なんだ」とか、「賄賂よこせ」とか色々めんどくさい事を言って通してくれません。ベネズエラは石油で潤っていて、南米でも一番の先進国なのに、なんで警官が賄賂を要求して来るんだかさっぱり分かりません。私達は「スペイン語は全然わからん」と言って全て払わずに通れましたが…。

 そして夜を徹してマラカイボからベネズエラの首都カラカスへ。昼頃カラカスに着いて、ホテルを探しても20$以上の非常に高いホテルしかなかったので、仕方なくカラカスをそのまま出る事に。しかし、魔の都市カラカスは容易に私達を出してくれません。南米の道は一方通行が非常に多く、またカラカスは地形に沿って大都市が出来たので道がものすごい分かり辛いのです。しかも標識がものすごく不親切。分かれ道があって、その100mくらい先にその分かれ道の標識が出ているなんて事もしばしばありました。「迷うように、迷うように標識をつけてるだろ!! 交通マナーは最悪だわ、標識は悪いわ、賄賂は要求されるわこんな国、頼まれても来るもんか!!」と悪態をつきながらカラカスを迷っていたのです。

 カラカスを迷っていたら、エンジンから異音がして来たのでガススタでその原因を調べる事に。調べてみたら先日コロンビアで直したはずの発電機から火花が散っているのを青山さんが発見したのです。発電機を直そうと思い、24時間営業のテキサコに取り合えず牛次郎を駐車。発電機を分解してみたら、軸受けベアリングが破損していました。「これはダメだね…新しいの買わなきゃね…」と話していると、どこからともなく自称メカニックが登場。自称メカニックは「24時間営業のエレクトリコ(自動車の電気パーツ屋)があるんだ」と言って、ウメと青山さんを車に乗せエレクトリコに行ったりしましたが…エレクトリコは困っている私達を助ける気がなく、自称メカニックはただのジャンキーだった事が判明。当然発電機は直らず、仕方がないのでそこのテキサコで一晩を過ごしたのです。

 そして次の朝。何故か牛次郎を叩く音が。なんでだろう?と思って外にでたら、警備員が「お前ら。ここに車を停めるな。すぐに出て行け」と言うのです。「なんで?うちの車は発電機が故障していて動かせない。発電機を買ってきて直さなきゃいけないんだ」と反論すると「それだったら横のレストランに車を移動してから直せ」との事。「お前アホか? だいたいにしてガソリンスタンドはガソリンを給油する所でもあるし、車をなおす設備だってあるだろう? なんで困っている奴を追い出そうとするんだ。 しかも横のレストランは関係ないだろ。横のレストランに言って停めてくれるわけないだろ」と反論。当たり前の事をなぜ言わなきゃいけないのかまったく理解できません。この辺でベネズエラ及び、ベネズエラ人への怒りが頂点へ。その後、ガススタの一番偉い奴と話をしたら「そうかそうか。発電機が壊れたのか。じゃあ部品屋までうちの車を出してあげよう。」と手のひらを返したような対応だったのですが…。

 無事、発電機が直り、牛次郎は一路シウダードボリバルへ。シウダードボリバルは、ブラジル国境へ行く途中の小さな街ですが、そこからはセスナ機でかの有名なギアナ高地へ行けるのです。牛次郎は一旦シウダードボリバルの空港に置いておき、私達はセスナ機でギアナ高地へ。人が悪いベネズエラですが、ギアナ高地とその廻りの自然、そして世界最大の滝エンジェルフォールは素晴らしいものでした。

 ギアナ高地を見た後に、ブラジルへ入国。ブラジルは入国するのに中南米ではめずらしくビザが必要なのですが、ブラジルより貧しい隣国ボリビアや、パラグアイなどから入国する場合、非常にビザが出辛くなっているという話を聞きました。例えばブラジルから出国する航空券の提示を求められたり、銀行の残高証明を求められたりと本当に色々難癖をつけられた挙句30日しかくれないとか。

 しかしベネズエラから入国する場合にはまったく問題ナシ。牛次郎をブラジル←→ベネズエラ国境の町サンタエレーナ・デ・ウアイレンのブラジル領事館の前に停め、ビザを取りに行くと「おお、あの車はお前達の車か? 車でブラジルを旅するのか? どこから出国するんだ?」と非常にフレンドリーな対応。しかも美味しいブラジルコーヒーまで出してくれたのでした。しかももらったビザは90日。広いブラジルを旅行するのに十分な日数でした。

 ブラジルは非常に人が良く、親切、そして南米の中で唯一私達をチノ(中国人)と呼ばない国。今回の牛次郎の旅の中で一番印象が良かった国です。領事館の人も親切ならば、国境の役人も親切で、旅の途中で知り合う人達も本当に親切な人が非常に多かったです。銀行までの道を聞いたら、車で銀行まで先導してくれたり、ガソリンスタンドでドライバーと話していたらメロンをくれたり、ガススタで自炊をしていたら机と椅子を持って来てくれたりと、ブラジル人がしてくれた親切は枚挙に暇がありません。「日本でブラジル人が困っていたら絶対親切にしてあげよう」と私は心に誓ったのです。当然今でもその誓いは変わりません。

 ブラジルは北部からフォス・ド・イグアスまで約6000kmを走りました。アマゾン川は走れないのでマナウスからベレンまで船を使いましたが、それ以外は全て牛次郎で走った事になります。道が良い所、悪い所、綺麗なビーチ、未開のアマゾン、延々と続く大平原、丘陵地帯、世界最大の大瀑布と色々ブラジルは見所がありましたが、何と言っても一番の印象は「なんでこんなにブラジルはデカイんだ!!」ということに尽きます。走っても走っても目的の都市につかず、道路標識に書いてあるのは「サンパウロ…1200km リオデジャネイロ…900km」とか気が遠くなるような数字ばかり。

 アマゾンを下ったときも3泊4日の間、まわりはずっとジャングル。船でずっと走っているのに風景がまったく変わらず、変わるのは太陽と、星と月の位置のみ。その気が遠くなるような広さに「広い!!」とか、「馬鹿でかい!!」とか、そう言った言葉が全て意味を失い、ただ津波のように心の中で巨大なものが泳いでいるようなそんな印象を受けたのでした。水平線や、地平線があるのが当たり前で、街や町は巨大な大平原の中からぽっかりと姿を現すものでした。日本で私は町は次の町とつながっているものという印象を持っていましたが、ブラジルでは町は大草原の中にぽっかりと現われる、人間の住んでいる少しの大地でした。それがあまりにも私にとっては意外性があり、既存の概念と違っていて、楽しかった事の一つでした。

 牛次郎の一番長い日もブラジルでした。ボアビスタからアマゾン川沿いの町マナウスに行く途中の事。道の真ん中に大きなトレーラーが止まっていて、人が手を振っていました。車を降りてみると、トレーラーの前に人が2人転がっていて、路肩にはクラッシュ&炎上している乗用車があり、一目でこれはヤバイ状況だと思いました。

 血だらけの男が半狂乱で「事故があった」とか、その状況をわめくのですが何を言っているんだかさっぱり分りません。転がっている人をよく見ると、1人はうわごとをつぶやき、1人は腹の所がバックリと切れてどう見ても生きていない状態。うわごとをつぶやいている人を乗せるのはイイのですが、腹の所が切れている死体を乗せるのは流石に嫌な気持ちでした。でも、そうも言っていられません。緊急事態なのです。

 せっかく前の町から50Kmも来たのに、一番近くの病院が前の町にしかないからと言う事で、また戻る事になりました。アクセルは踏みっぱなし。エンジンから異音がしても気にしないでエンジン をぶんまわします。牛次郎を買ってからと言うもの、こんなにエンジンを回した事 はなく、またこの後もないと言うくらい回しました。 自分達はこの場合、冷静になって1分1秒でも早く病院に送り届ける事を考えていれば良かったのですが、さすがに冷静にはなりきれません。 「ここで、1秒おくれたら人が死ぬかもしれない」と言う思いや、「自分が事故にあった立場だったら、絶対に早く着いて欲しいと思うに違いない」とか、「自分が この事故をもし起こしたのだったら…」と言う様な色々な思いが頭の中をぐるぐる駆け巡りました。

 そして、急いで道を走り、病院着。小さい病院でした。でも、病院には違いありません。ちゃんとしたお医者さんもいます。マナウスからカラカライまで600Km弱。 その距離に病院&電話は無いのです。 300Km地点で事故を起こしたら、病院に到着するまで3から5時間。そんな所で事故にあったら命は無いものとして諦めなければいけないのでしょう。

 病院の診察では2人は助かり、腹が切れていた1人は死亡と言う事でした。 全ての事が済んだ後、私達は警察で寝る事になりました。警察では、キッチン、シャ ワーを使わせてくれましたがさすがにベッドは使わせてくれません。 仕方ないので、さっきまで怪我人&死体が寝ていた所で私達は一晩を過ごしたのでした…。自分が事故を起したら、という事を本当にシミジミと痛感した一日でした。

 さて、ブラジルを抜けると次はパラグアイ。パラグアイは本当に通過するだけ。通過するだけのつもりで入国したのですが、シウダード・デル・エステと言うパラグアイ←→ブラジル国境の街が街全体免税品市場になっていて、非常に楽しかったのが印象的でした。最新型のデジカメ、カメラ、DVD、TV、ビデオ、コピーCD、コピーPCゲーム、コピーPSゲーム、ノートパソコンとありとあらゆるものが揃い、しかも安い!! 隣国ブラジルは輸入品に対して300%の関税を取るのに対してここは関税0%だから当たり前です。ほとんどの電気製品が日本と同じ位の値段で買えるのです。昔、秋葉原で働いていた私は飯に飢えると言うよりはどちらかと言うと電気製品や技術の香りに飢える方。旅の中で電気製品に飢えていた私は久しぶりの電気街を堪能したのでした。

 パラグアイと言えば、2日間の間に3回も警官に捕まった事が忘れられません。1回目は牛次郎に乗っている時。検問があると牛次郎は怪しい迷彩色の車なので、だいたい停められるのですが、この時も例外ではありませんでした。停めてから私達が外国人だと判ると賄賂を取る事に決めた模様。なんでも、テールランプが点いていなかったから罰金100$だと言うのです。ラグアイにはグアラニーという立派な通貨があるのに、いきなり始めの言い値がドル。あまりにも分かりやすい賄賂請求なので笑ってしまう所でした。結局この警官はテールランプを私達が直してしまったと分かると、今度はナンバープレートのライトが点いていないので罰金だと言い始め、結局30分ぐらい「罰金、罰金」と言っていました。結局払いませんでしたが。

 2回目は夜中のバスターミナル。私達がバスターミナルでビールを買ってから外に出たら、人気のなさそうな所で警官が寄って来て、パスポートの提示を要求するのです。私達の宿はバスターミナルから歩いて3分の所だったのでその時は特に問題ないだろうと言う事で、パスポートを持たないで出ていました。警官にその旨を説明しても全然納得しないので、「ホテルにパスポート置いてあるから、取って来るよ」と言うと、青山さんは警官と一緒に居て、私だけ取りに行ってこいと言うのです。要は人質です。仕方なく取って来ると、青山さんは取調室の中に居ました。青山さんが言うには、「こいつら、ホントに怪しんでいるみたいなんだけどさ、人の財布の中しみじみ見てみたり、ポケットに手を突っ込んで人の腰骨触ってさ、これは何だって言うの。いや、それは俺の骨だってって答えたんだけど。」と言う話。この時は、ホントに怪しんでいたのでパスポートを見ただけで終わりました。

 3回目はどう考えても賄賂目当てのパスポートチェック。この時はパスポートを持っていたので問題ありませんでした。賄賂を要求する警官は、なにもパラグアイに限った話ではありません。南米の中で賄賂を要求する警官が居る国は、ベネズエラ、パラグアイ、アルゼンチン、ペルー、エクアドル。賄賂を要求する警官が居ない国は、コロンビア、ブラジル、チリ。賄賂を要求する警官が居ない国は、警官だけでなく、一般の人も優しい国だと総じて私は感じています。賄賂を要求する警官が居ない国は、本当に印象が良いものです。

 パラグアイの後はアルゼンチン。パラグアイからアルゼンチンの国境を通過する時、麻薬をもっているのではないかと非常に怪しまれ、牛次郎の中に麻薬犬まで乗ってきたのですが、あるはずのないものは見つかるわけもなく。麻薬検査官は2時間以上私達の荷物や牛次郎をゴソゴソやっていたのですが…お疲れ様でした。麻薬検査官いわく「おかしい、絶対出て来るはずなんだが…」だそうです。私達そんなに怪しかったのでしょうか?

 アルゼンチンは南米の中でも一番物価の高い国なので、今回私達は素通りするだけ。牛次郎はパラグアイ←→アルゼンチンの国境から、アルゼンチン←→チリの国境まで2000kmを3泊4日で走りきったのです。ブラジルでは毎日故障してメカニック通いをしていた牛次郎も、道が良くなると俄然良く走り、故障しないようになりました。一日600kmペースで故障なしで走るなんてブラジルでは考えられなかった事です。アルゼンチンの北部にはパンパと呼ばれる大平原が広がっているのですが、本当にアンデスを越えるアルゼンチン←→チリの国境近くまでずーーーーっと平原。走っている大地のまわりは全て平原で、360度見渡す限りの地平線。まったいらな大地の中を走り、地平線に太陽が消えて行く瞬間、空気の色もピンク色に変わり、「ああ、美しいなぁ…今日も一日終わったのだ…」としみじみ思うものでした。

 牛次郎初のアンデス越えをし、アルゼンチン←→チリの国境を抜けた後、私達は日本人宿「汐見荘」があるビーニャデルマルへ。汐見荘で1週間息抜きをした後、私達にとって南米最後のみどころとなるウユニ塩湖へ向かいました。ウユニ塩湖へ行く道はボリビア側からアプローチする方法と、国境を接しているチリ側からアプローチする方法の2つがありますが、今回は牛次郎がおんぼろでとてもボリビアの道は走れないとの判断をし、チリ側からのツアーを使うことに。ウユニ塩湖は今まで見た事もない真っ白な塩の大地で本当に素晴らしかったのですが、標高4500mと言う高度が引き起こす高山病に悩まされました。

 ウユニ塩湖から帰って来て、メールを受信してみると、以前私達がクスコでお世話になったナオツアーの直子さんがリマに5日後まで滞在しているとの事。その時点の牛次郎ではとてもクスコまでアンデスを上れそうになかったので、「クスコに行ってお世話になった人達にさよならが言えないね」とウメとkが話をしていた矢先のメール。「一番お世話になった直子さんに会えるよ!!」と言う事でリマまでの2100Kmを2泊3日で走りきることにしました。

 一日15時間以上走りつづけ、リマへ。着いた時には3人ともへとへとでしたが、なんとか直子さんに会う事が出来ました。そしてリマで5日間程疲れを癒した後、最終目的地キトへ。サンペドロ・デ・アタカマからリマまで飛ばして辛かったのと、もう最後だからゆっくり行こうよという事で、リマからキトまで一日300kmペースでゆっくり北上。そして11月7日、無事にキトに到着しました。

 総走行距離22000km。総ガソリン使用量2500L。駐車場の柱にこする事3回。電信柱にぶつける事1回。お世話になったメカニックの数50以上。ガソリンタンク破壊3回。パンク3回。ブレーキ故障10回位。ラジエターホース切れ1回。キャブレター詰まり1回。クラッチ故障2回。発電機交換1回。発電機故障1回。スパークプラグの掃除100回位。シフトノブ破損1回。シフトネジ欠落1回。プラグケーブル交換1回。バッテリー液補充1回。バッテリー充電1回。ディストリビューター故障1回。ファンベルト交換1回。ホイール破損1回。ホイール購入1回。タイヤ購入5本。タイヤの虫破損1回。スペアタイヤ紛失1回。ラジエターの水注入毎日。オイル漏れ修理2回。オイル補充5日に1回。ガス欠5回。ワイパー片方破損。窓枠破損2回。テールランプ修理4回。ランプ故障20回位。スターターモーターの故障はブラジルから。なので押しがけはブラジルからほとんど毎日。車で引いてエンジンをかけた事3回。動いているメーターは電圧計と外気温計のみ。動かないメーターはスピード計、走行距離計、油圧計、等々。

 とにかく故障の固まりだった牛次郎。どこか壊れる度にいつもこれでもうダメかなぁと思ってしまったけど、メカニックに行くといつも不死鳥の様に甦えった牛次郎。こんな車、日本だったら修理代がかかりまくってとっくに廃車にしているでしょう。南米は日本だったら1万円かかる修理も部品代の300円だけとか言うケースが多いのです。日本だったら「修理は明後日ですね」と言われるような修理もいつも飛びこみですぐに直してくれたのです。ブラジルのあるメカニックは、電気系統の修理をしてくれた挙句、笑いながら「君達は旅人だからお金はいらないよ」と言ってくれました。またブラジルのあるメカニックはクラッチを油まみれになって直してくれた後、「コーヒー代だけくれればいいよ」と言ってくれました。エクアドルに帰ってきた後、一番最初にお世話になったメカニックが「みんなでいつ帰って来るか話をしてたんだよ」と言っていました。

 本当に、牛次郎は多くの人々の親切と、優しさと、思いに支えられて南米を一周できたのだと思うのです。お世話になった方々、本当に、本当にありがとうございました。  

モドル